保春院の由緒

少林山とは古い表記でワカバヤシ(若林)を表しており、近くにある現在の宮城刑務所の地には、以前は伊達政宗公の出城でもあった若林城が建っていました。また保春院という名前は政宗公の父輝宗公が亡くなった後、母義姫が出家した際に、政宗公の師である覚範寺開山(初代住職)の虎哉宗乙禅師より頂いた法名「保春院殿花窓久栄尼大姉(ほしゅんいんでんかそうきゅうえいにだいし)」に由来しています。

政宗公は寛永13年(1636)保春院さまの十三回忌にあたり菩提を弔うために、覚範寺第四世清岳宗拙和尚を開山として迎え保春院を創建しました。政宗公最後の参勤となる江戸出発の2日前の4月18日に、8年の歳月をかけ創建された保春院の完成を祝い参詣したあと、杜鵑の初音を聴くために経ヶ峯に立ち寄りお城に帰りました。その際、家臣の奥山大学に「死後この辺りに墓所を定めるように」と指示した事は大変有名な逸話になっています。政宗公は翌月24日に江戸の屋敷で亡くなり、後に墓所である瑞鳳殿とその隣に瑞鳳寺(菩提寺)が忠宗公によって建立されました。政宗公のご遺体は江戸から覚範寺に移され葬儀は清岳和尚導師のもと挙行されました。その縁により清岳和尚は瑞鳳寺完成時に開山として保春院より移住されました。以降、保春院の住職は、覚範寺、瑞鳳寺を歴任された方が数名おられ、現在は第二十世に至っています。

保春院は仙台藩一門格に列し180石の寺領を持ち堂塔伽藍は広壮で当時は仙台七刹の一と称されていましたが、宝永4年(1707)2月13日の大火等度重なる火事により灰燼に帰してしまいました。その後幾度か再建はされましたが、政宗公が創建した頃には遠く及ばず、明治維新の後は藩主の外護を失いほぼ廃寺の状態になってしまいました。最盛期には5町8反と称され、塔頭(境内にあるお寺)もあった寺地はその面影すら無くなっていますが、本堂には政宗公がつくった母君の御位牌と、保春院さまが夫君亡き後38年間手を合わせていた輝宗公の御位牌が今も残されています。

※覚範寺 仙台市青葉区北山に所在する寺院で輝宗公の菩提寺
     覚範寺殿性山受心大居士の法名に由来する